『書く女』

 現在流通している5,000円札に描かれている人物は、樋口一葉である。本名、樋口夏子。戸籍名は、樋口奈津。人呼んで“なっちゃん”。またの名を「ひぐちなつこ」を縮めて“ひなっちゃん”。明治時代の女流小説家。そして夭折した天才。貧困の中で今も読み継がれている小説の数々。『大つごもり』『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』『たけくらべ』などなど。
 また、樋口一葉自身も後世、さまざまな媒体で表現されている。映画演劇小説。24歳の時肺結核で死んでしまう樋口一葉は、表現者たちにとって格好の題材に足りうる魅力的なモデルなのであろう。それには一葉没後に刊行された『一葉日記』がネタ元として活用されているようだ。この『一葉日記』は半ば文語体で書かれているので現代人の我々にとっては難解な部類に入るが、女性特有の感性で書かれているので、読んでみるとそれなりに面白い。
 一葉を主人公にした芝居となると、その嚆矢となるのは、井上ひさし作『頭痛肩こり樋口一葉』にあろうか。そして永井愛の『書く女』が続く。

『書く女』(永井愛 著)(而立書房)(2016)

書く女

書く女

 本書は芝居の脚本である。綿密な取材と資料を逍遥して書き上げた感じのする優れた脚本だと思う。永井愛は樋口一葉を同じ文章で表現する作家として、しかも女流作家として半ばライバル視しているような印象も受ける。同じ女性として一葉はどのようにしてものを書いていたのか?を検証している様子が窺われるのだ。作者の永井愛は一葉の短いけれど鮮烈な作家人生をなぞることによって、物を書いて表現する、ということはどういうことなんだろう? 何のために書くのだろう? 誰のために書いているのだろう?・・・というようなことを自問自答しているのだと思う。

 本書はこの1月に世田谷パブリックシアターで上演された「書く女」の脚本である。この「書く女」は2006年(平成18年)に初演され、今回2016年1月に再演された。執筆子はその再演を観にいき、そしてホワイエで売られている本書を購入した次第である。
 初演で樋口夏子を演じたのは、寺島しのぶ。相手役の半井桃水筒井道隆。そして今回の再演では、樋口夏子=黒木華半井桃水平岳大

 初演再演ともに、どちらの夏子も適役だと思う。本書のあとがきに「2016年の再演に際しては、初演時の上演台本を若干カットし、手直しを加えた」とあるが、初演を観ていない執筆子は、どこがどう変わったか、わからない。でも再演での直しは夏子役の黒木華に沿うような形の修正だろうと想像している。役者を決めて、そして彼や彼女に合うように脚本をいじる。強そうな寺島夏子をちょびっと柔らかくした黒木夏子にしたのだろうと思うのだ。
 芝居を観る時、あらかじめ脚本を読んでおくと、とても集中して芝居を観ることができる。しかし、脚本を読まなくても芝居は充分楽しめる。当たり前である。
 芝居を観た後に脚本を読めば、頭の中で再び芝居を上演させることが可能なのだ。
 『一葉日記』にもあるが、なぜ夏子は恋愛をしなかったのだろう?半井桃水のことはおそらく好きだった。しかし片思いで終わってしまっている。相思相愛の情況を恋愛と呼ぶのなら、樋口夏子は恋愛をしていない。人を好きになることはあってもそれ以上の進展はまるでない。でも恋愛めいたものはちゃんと書いている。
 夏子の人生は、書くために存在するのであって、それ以外のことはしてはならない、すべきでない。書くこと以外は時間の無駄。しかも24歳という極端に短い人生。まさに彼女は書くことだけが目的の人生を走り去った感じである。

 夏子はおそらく普通の女の子だった。樋口夏子(ひぐちなつこ)で、あだ名は「ひなつ」。ひなっちゃん。友だちも大勢いただだろう。でも夏子は言葉に対する想いは、他の人よりもずっとずば抜けていた。言葉のセンス。それを磨いて磨いて、そして言葉で表現をする作家の道を選んだ。彼女が師に選び、恋心を抱いていたのが半井桃水。酷な云い方をすれば、夏子は桃水のことを恋愛を表現するための実験材料にしたのだろうと思われる。少なくとも本書ではそのような解釈をしている。夏子にとって自分の身の回りのものと出来事すべては小説のネタであり、材料なのだ。書くためなら何でもする、しかし書く時間を確保しなければならないから、何かをしてものめり込むことはない。

 行動し、考えて、それを表現すること。そのたいへんさを感じさせる芝居であり、この一冊なのだ。