『献灯使』

 東日本大震災から5年が過ぎた。震災直後からさまざまな形で表現者たちはこの震災をテーマに作品を発表している。当初の作品は表現の差こそあれ、死者の鎮魂とこれからの望みを描いているように思う。そして5年が経ったいま、何も変わらないことへの絶望、期待した分その落胆が激しく、将来への望みが消えた、虚無的な作品が多くなってきたような印象がある。

『献灯使』(多和田葉子 著)(2014年)(講談社

献灯使

献灯使

 本書は、表題となっている中編小説と、その他4編の短編小説をまとめたものである。そして圧倒的にこの『献灯使』が質量ともに群を抜いている。
 『献灯使』。
 不思議な題名である。「けんとうし」と読み、我々がよく知っている「遣唐使」と同じ読みであり、本書の最後の方で、「献灯使」とは何か、という答えが出てくる。
 この不思議な題名の小説は、震災小説に分類されるのはなぜか?
 震災のことや原発の事故のことなど、具体的なことは何も出てこない。しかし読者は読み進めていくうちに、舞台は近未来の日本であり、その日本が大災害に見舞われ、そして原子力発電所に大きな事故が起こり、国土の東半分はほとんど人が住めなくなってしまい、さらに政府はあまり機能せず、外国との交流も途絶え、鎖国を強いられている、という状況が徐々に明らかになっていく。
 放射能の影響と思われるが、年寄りが元気で若者が病気がちな世の中になっている。事故前と事故後で人の生活様式、習慣、そして言葉が急激に変化している。改革に失敗したが、よき習慣と思われていたこの国の伝統的な生活も一緒になって悪い方に変化してしまった。
 本書は途中から主語が変わる。長調から短調に変調したようなちょっとした違和感を覚えながら読み進める。執筆子はこの主語変わりをなぜ著者が行ったのか、わからない。
 前半の主語=主人公は、ひ孫と同居している義郎。後半の主語=主人公は、そのひ孫である無名。
 ひ孫と曽祖父が同居している、とはどんな家庭なのだろう、と読者はびっくりする。曽祖父の義郎は元気に生活している。ひ弱なひ孫の無名の世話をしながら、家事全般をこなしている。一方の無名はひとりでは登校できないほど、体力のない弱々しい若者なのだ。災害と事故がダブルでやってきたその後のことを描いているが、この大災厄の前に生まれた老人はいつまでも元気であり、その後に生まれた人々は世代を重ねていくごとに弱っていく。読んでいてやるせない気持ちになる。

 登場する名前に筆者の意図、というか考えが隠されているような気がしてならない。
 曽祖父が義郎(よしろう)。その娘が天南(あまな)。天南の息子が飛藻(とも)。そして飛藻の息子が無名(むめい)。
 お気づきのように、我々が人名として理解できるのは、義郎という名前だけであり、その子たちの名前は、なんと読むのか、男か女かわからない名前ばかりである。
 おそらく義郎が若い時、天南が生まれてくる前に、この国は大災厄に見舞われ、価値観が変化してしまった、ということを示唆している。ひ孫に至っては、名前がないという意味の「無名」がその名なのだ。その名前から時代の価値観が変化した、ということでは済まされない大転換を感じる。もはやなにも価値がない、ということなのだろうか。

 本書は絶望しながらも、日々生きていかなければならない人の姿を淡白な表現で綴られている。理不尽な運命に翻弄されながらも、懸命に生きている。登場人物たちは、自分たちが置かれた立場をあまり深く考えずに生きているが、それは生活することに精一杯で考える余裕がないからなのか、それとも考えることに倦んでしまったからなのかはわからない。運命を素直に受け入れて淡々と生きている。
 この単調な生き方を描くことによって、読者は却って絶望感を深める。

 著者はドイツに永住権を持つ。日本語をドイツ語の両方で作品を発表している作家である。外から日本を観ている日本人が一番この国の状況がよくわかるようだ。