『やがて海へと届く』

 東日本大震災から5年が過ぎている。死者を弔う方法がわからない。
 無残にも残酷にも途中ですっぱりと断ち切られた人生。運命とはいえ、これほど悔しくて悲しいことはあるまい。彼らの魂はどこにいくのだろうか。死んでしまった者の無念。生き残った者の後悔。地上にも空天にも海底にもそれぞれの想いが渦巻いて交錯し輻輳している。
 生き残った我ら、生きている我々はどうしたらいいのだろう。
 苦しみぬく生者の物語があった。

『やがて海へと届く』(彩瀬まる 著)(2016年)(講談社

やがて海へと届く

やがて海へと届く

 本書の著者である、彩瀬まる氏の書籍の紹介は小欄では2冊目。1冊目は2012年6月に紹介した『暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道から脱出』という著者が実際に体験したルポルタージュだった。著者である彩瀬まる氏は東北をひとりで旅をし、東京に戻るときに常磐線新地駅で震災に遭った。
 今回紹介する本に登場するすみれさんも東北へ一人旅をしている時に被災し、津波に呑まれてしまった。そして遺体はまだ発見されていない。
 本書はこの行方不明のすみれさんと親友であった真奈さん。このふたりの物語である。ふたつの物語がパラレルに進行していく。読者は生と死を追体験しながら、物語は進んでいく。
 行方不明のすみれさんへの断ち切れない想いを背負い込んでいる真奈さんは苦しんでいる。すみれさんがこの世に残した想いはこの世に生きている真奈さんが引き受けているのかもしれないし、そうでないかもしれない。たくさんの想いを背負っているようにみえて、実はぽっかりと穴の空いたような喪失感にもがき苦しんでいるのか。それとも苦しんでいないのか。自分が何に苦しんでいるのか、わからなくなる。現実の職場でのストレスで悩んでいるのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

 ごく親しい人がある日突然、いなくなったらどうなるのだろう?
 たぶん、著者はこの疑問からこの物語をスタートしたのだと思う。
 ある日を境に突然いなくなってしまった親友。巨大津波が東北地方の沿岸部を襲ったので、津波に呑まれてしまったのは想像がつくが、遺体が発見されていないので、100%確信が持てない。もしかしたら、どこかで生きているかもしれない。親友の死を覚悟しても、彼女の魂、想い、気持ちまであちら−彼岸に行ってしまってはいないと思っている。すみれさんの気持ちは何かのかけらになって、真奈さんのごく近いところに存在しているかもしれない。
 そして時間が過ぎていく。「時間」だけが苦しい想いを断ち切れる唯一の道具なのだ、ということに読者は気づくのだ。
 あの震災から5年が経つ。当初は語りたくないと頑なに口を閉ざしていた被災された人々もようやく重い口を開いて自分自身の体験を語り始めている。語る、という行為は体の中にたまった澱のようなものを喋ることによって外に吐き出す行為であり、体を清浄にしていく行為であるが、この行為はそれなりにエネルギーがいる。喪失感に襲われている時に人は語らない。いいや、語れない。この震災では、津波によって家が土台を残してそっくりなくなってしまった人が大勢いる。家は流されなかったけれど、室内のものがすっかり流された人も大勢いる。家はその人の記憶だった。記憶がそっくり消滅してしまった。その喪失感たるやどんなものなのか、あまりにも大きすぎて想像することが困難。
 それでも時間が流れ、新しい記憶が少しずつでも積み重なれば、喪失感が徐々に埋まっていき、そして精神的にも平常で穏やかな状態に戻っていき、そして語ることができる。
 つまり、最も有効な弔う方法は時間が経過することなのだ。真奈さんはすみれさんを弔うことができた。
 真奈さんは、こうして時間の経過とともに日常に戻ることができた。そして新しい恋人もできた。

 著者の鋭い表現力には脱帽である。感じていることをしっかり文章にしている。そしてそれがしっかりと読者に伝わっている。