『震災編集者―東北の小さな出版社〈荒蝦夷〉の5年間』

 5年前の東日本大震災の後、被災者の様子を記録した書籍は夥しい数の点数が発刊されている。震災直後、数カ月後、1年後、・・・そして5年後。あらゆる時期を舞台にしてさまざまな被災者を観察した書籍の一群が存在している。そしてたいがいの場合、それらの記録は被災していない外部の人が記述している。そして被災者自身がしるした記録=体験談は発生から直後、その後避難所から仮設住宅にたどり着くまでのことがほとんどであり、ある程度の時間の経過したところを記録したものはあまりない。
 被災者自身は、震災後をどのように思いながら日々生きているのだろう?・・・という素朴な疑問が常にあった。残念ながら、被災していない外部の書き手による書物(新聞とか雑誌などの記事も含む)からは、被災者の想いがなかなか伝わってこない。それは時間の経過に比例する。発行時期が震災から時間が経過していけば経過するほど、被災者との距離が遠くなっていくような気がする。5年前のあの時、我々はみんな被災者に寄り添えていた。それが今はこの東京にいると、徐々にだんだんと被災者と離れていくのを常に感じている。
 それはたぶん、被災者自身から発せられた言葉がないからだと思う。
 ところが、ここに被災者でありなおかつ表現者である人の著作物がコンパクトに1冊に収められた書籍が発刊された。

『震災編集者―東北の小さな出版社〈荒蝦夷〉の5年間』(土方正志 著)(2016年)
河出書房新社

震災編集者:東北の小さな出版社・荒蝦夷の5年間

震災編集者:東北の小さな出版社・荒蝦夷の5年間

 著者は仙台で「荒蝦夷(あらえみし)」という名の出版社を起こしている編集者。東日本大震災で被災した著者は、それ以前、長崎県島原市雲仙普賢岳噴火)・北海道奥尻島北海道南西沖地震)・兵庫県神戸市(阪神淡路大震災)・東京都三宅島(三宅島噴火)・北海道洞爺湖町有珠山噴火)・・・と災害現場をいく、ライター兼編集者である。そして2011年、仙台に拠点を置いて5年目に東日本大震災が発生し、自分自身が被災者となった。つまり、著者は、取材者ではなく被災者としてこの巨大な災厄に向き合うことになった。読者としては、この著者がどんなことを表現しているか、とても興味深く本書のページを繰ることになる。
 著者は云う。「災害列島に生きる「明日の被災者」たる人たちへの伝言」と。それが本書に一貫して流れるテーマであろう。

 本書は、荒蝦夷の主宰者である著者が震災後、さまざまなところに書いてきた文章を時系列に並べて1冊の本にまとめたものだ。したがって、構成は発災直後から始まり、この5年間をなぞるように進んでいく。

 本書をとても新鮮な気持ちで読めた。いままで被災者に寄り添う、ということを繰り返し、自分の気持ちの中で確かめていた。また、気持ちの中でこの震災禍を風化させないように努めていた。それでもやっぱり時の流れには抗っていたつもりでも、気持ちは高い処で留まらず、少しずつ低下していたことを否めなかった。本書を読んで、それがきっぱりとわかった。わかったのはこの一文を読んだときだった。

 “「壊滅」したのはその地に暮らす人たちの生活であり歴史なのだ・・・”。

 ・・・この当たり前すぎることを忘れていた。5年前、あの何もかも津波に呑まれてしまった風景を目の当たりにして、生活も歴史もなくなってしまったんだな、と思い、涙した。それが月日とともに想いが鈍感になっていった。それが風化ということなんだ。この気持ちは本書を読んで初めて認識した次第である。

 「復興」と称して巨大な防潮堤を造り、重機を大量に動員して土地を嵩上げし、背後の山を削り高台移転をする。津波によって、それまで連綿と続いた地域の歴史はリセットされた。そしてこれら復興事業によってそこに住む人々の文化の継承までも途切れてしまうことに危惧を覚える。
 本書の著者は、そこに中央(東京)の鈍い感性をみている。彼だけでなく、被災地および被災者はすべてそう思っている。いわゆる“上から目線”の復興計画。それは沖縄への態度と相通じるものがある。植民地と宗主国の関係が連想される。

 閑話休題
 復旧、復興、再開しても、それは以前のそこではない。3.11より前の空間ではない。完全に失われてしまった。それは文化や精神も含まれる。大いなる喪失感。日常が3.11を境に非日常になってしまったが、しかし再びそれは日常に戻ることはない。
 この非日常=被災状況において、それでもみんなそこで生きていかなければならない。私たちはそこをしっかりと押さえておかないといけないと思う。被災者は非日常を生きていかなければならない、ということを。
 このような大災害に遭遇した人たちと寄り添い、そして忘れないこと。それは同胞(はらから)としての義務である。また、もうひとつ。それは我々「未災者」が学習することに他ならない。彼らの生き方を学ぶことがすなわち、まだ大災害を経験していない我々の進むべき道を示す指針になる、ということだ。