『人が死なない防災』

 今月も防災本を紹介したい。
 群馬大学の片田教授は災害社会工学が専門であるが、自然災害大国である日本においては、避難の専門家ということになっている。
 片田先生の書籍は2015年の12月に一冊紹介している。
 『子どもたちに「生き抜く力を」 釜石の事例に学ぶ津波防災教室』という本で、東日本大震災時に岩手県釜石市の小中学生が自主的に避難して助かったことについて書かれた本だった。その防災指導をしたのが片田先生である。
 今回紹介する本は、この“釜石の奇跡”のこと、東日本大震災の体験だけではなく、広く災害一般についての災害対応行動をわかりやすく解説した新書である。

『人が死なない防災』(片田敏孝 著)(集英社)(集英社新書)(2012年3月初版)
(2016年4月第5刷)

人が死なない防災 (集英社新書)

人が死なない防災 (集英社新書)

 本書をひとことで表せば、この小文の標題どおり。“理性的な災害対応行動をとろう”ということに尽きる。災害は忘れたころにやってきて、しかもそれぞれ、自分は生き残ることを前提に考える。しかもその生存の確信は何かに裏打ちされたものではなく、限りなく楽観的期待、希望的観測に基づいている。
 日本に住んでいる以上、どこでもどんな場所でも、被災者になりうる可能性がある。洪水・津波・土石流・噴火・豪雪・高潮・火災……。
 まずは、その自分だけは助かるに決まっている、という楽観論を捨てなければいけない。そして自らを律して(怠けずに)、災害対応行動をとることが生存への大前提となる。すぐには全国民がそうなる、とはいかない。“もういつ死んでもいいから逃げないよ”とか“絶対にここは安全だからこのままここにいるよ”ということを云う人は必ずいる。だから片田先生は子どもから防災教育を徹底していこう、という考え方なのだ。
 本書の読者層も、高校生くらいを対象にしていると云ってもいい。実際に第3章は震災の前年に釜石高校での講演会を書き下ろしたもの。釜石高校での講演会の9ヶ月後に地震が起こり、津波がやってきた。

 片田先生は云う。この東日本大震災は、想定が甘かったのではなく、想定にとらわれすぎたのだ、と。防災が進むこと(高い防潮堤や堤防の構築など)は、自然との距離感が広がることであり、人間の脆弱性が増すことに他ならない。具体的な例として、海がまったく見えないほど巨大な防潮堤を築いたことが、人を災害から遠ざけてしまうひとつの要因になってしまった。ということだ。
 「想定にとらわれすぎた」ということは、どういうことだろう?
 それは行政が作成したハザードマップがいい例である。ハザードマップの危険地域の外側に家がある人は、逃げようと思わない。そしてこの東日本大震災では、大津波が軽々とハザードマップの危険区域を乗り越え、安全区域にまで浸入してきたので、安全だとされた地域の多くの住民が津波に呑まれた。つまり「津波はここまで来ない」という想定を信じて動かなかったわけだ。
 防災に関して云えば、私たちはいつの間にか行政が決めたこと、行政がやっていることに盲目的に従うだけになってしまっている。100年前はそうではなかった。防波堤も堤防も砂防ダムもなかったから、自分たちで自分たちを守っていた。……そういう生存本能を麻痺させるように自然を遠ざけるしくみを私たちは行政を通じて拵えてしまった。その結果、主体性が奪われた。自分の命を守ることに主体的でなくなったのだ。誰かが助けてくれる、のではない。
自分の命は自分が主体的に守らなくてはいけないのだ。自分の命を主体的に守ろうというその姿勢こそ、最も大切なことだと説いている。

 片田先生のこのことばは強烈だった。
 「災害対策基本法のもと、50年に渡って「行政が行う防災」が進められてきた結果、このような日本の防災文化が定着してしまっている。防災に関して過剰な行政依存、情報依存の状態にある。自分の命の安全を全部行政に委ねる。いわば、住民は「防災過保護」という状態にあるのです。これがわが国の防災における最大の問題なのです。」

 「津波てんでんこ」ということばがある。津波のときはてんでんばらばらに逃げなさい、ってことだが、実際にそんなことできない。お母さんは子どものことが心配でたまらないし、子どもは老いた親が気になって仕方ない。でもめいめいが「自分の命の責任をもつ」のであれば、そしてそれを家族が信じあうことができるのであれば、この「津波てんでんこ」は生きていることばになる。