『明治のサムライ −「武士道」新渡戸稲造、軍部と戦う−』

新渡戸稲造、という人に興味があった。樋口一葉の前の5,000円札の人である。

 昭和59年から平成16年まで流通していた。そもそもこのときに新渡戸稲造って誰だか知らなかったし、『武士道』の作者だった、とか、国際連盟の事務局次長だったとか、経歴について断片的に知ることになったけれど、その後も特に伝記を読んだわけではなく、そのままにしていたが、やはり気になってはいたので、これを機会に新渡戸稲造について書かれた一冊の本を手に取ることにした。

『明治のサムライ −「武士道」新渡戸稲造、軍部と戦う−』
(太田尚樹 著)(文藝春秋社)(文春新書)(2008年)

新渡戸稲造。教育家。農政学者。
1862年文久2年)盛岡生まれ。
1877年(明治10年札幌農学校の二期生入学(15歳)。その後東京大学へ。
1884年明治17年)米国ジョンズ・ホプキンス大学留学(22歳)。
1887年(明治20年)独ボン大学へ(25歳)。
1891年(明治24年)結婚(米国人メリー・エルキントン)。帰国。札幌農学校教授(29歳)。
1900年(明治33年)英文『武士道』出版。ヨーロッパ視察(38歳)。
1901年(明治34年台湾総督府民生部殖産局長心得(39歳)。
1906年明治39年)第一高等学校校長就任(44歳)。
1918年(大正7年)東京女子大学初代学長(56歳)。
1920年(大正9年)国際連盟事務次長(58歳)。
1926年(大正15年)国際連盟事務次長を退任。貴族院議員(64歳)。
1929年(昭和4年)太平洋調査会理事長(67歳)。
1933年(昭和8年)カナダ・ビクトリア市にて客死(71歳)。

 新渡戸稲造の印象。彼について現代の日本人はどれだけ知っているのだろう。

「武士道」新渡戸稲造、軍部とたたかう 明治のサムライ (文春新書)

「武士道」新渡戸稲造、軍部とたたかう 明治のサムライ (文春新書)

 5,000円札の肖像画の人(これでさえ、替わってからもう10年以上経っている)。『武士道』の著者(このことを知っている人は多いだろうが、実際にこの『武士道』を読んだ人はおそらくぐっと少ないだろう)。国際連盟事務次長(日本人にとって国際連盟の印象はあの松岡外相による脱退の情景に尽きるのではないだろうか)。

 いずれにしても幕末に朝敵だった盛岡の武士の家に生まれて、さまざまな所で学び、英語が堪能で、教育家、そして有能な官吏であり、明治大正昭和を生きた新渡戸稲造は半ば忘れられた偉人、と云っていいかもしれない。もったいないことだと思う。

 新渡戸稲造は、札幌農学校での課程を終えて、東京大学に入学する時の面接で、「太平洋の橋になりたい」と述べて、面接官を驚かせた。日本と西洋。日本の長所を西洋に紹介し、西洋の長所をどしどし輸入する、そのような橋渡しの役をやりたい、ということだった。経歴をみると、まさしくその希望に沿った人生を歩んだ、と云えるだろう。

 本書は、そんな新渡戸稲造の生涯を追いながら、彼の取った行動を彼の思想から考察する。新書版なので、一般向けにわかりやすく書かれている。

 新渡戸稲造と云えば、『武士道』が有名である。この『武士道』を彼はなぜ書いたのか。という疑問がある。日本人の行動様式、思想形成に大きな影響を与えているのは、特定の宗教とではなく、武士の行動様式、武士の思想による処が大きい。と看過したからに他ならない。英語で書かれたこの本は出版時期が日露戦争後だった、ということも重なり、全世界で大いに読まれたらしい。

 日本人の知識層は、西洋の唯一絶対神を信じるキリスト教と対立を求めず相対的な仏教や神道の影響を受けた日本独自の精神と、このふたつの思想が自分の中で相克している状況であり、それは開国したときから始まって、未だにそのふたつを抱えている。そして新渡戸稲造がまさにその典型であるように映る。

 彼の晩年(国際連盟事務次長を退任してから。それは時代が昭和に入ったときと重なる)に、彼は満州事変や上海事変を起こした軍部を憎み、国内では軍部を批判したが、外では日本の取った行動に理解を示し、日本の立場を擁護している。個人の意志に反した行動を取ることは、すなわち新渡戸の中に時代の雰囲気、時勢というようなものが反映されていたのであろう。日本の精神が誇張され、過大に評価され、「愛国心」ということばに収斂されてしまう、結果として一度は日本を滅ぼした思想に、新渡戸でさえ抗えなかったことの証左であろうと思われる。

 この晩年の新渡戸が体験した時代の雰囲気は、どこかいまの日本の雰囲気に似ていることは、さまざまな人が警鐘を鳴らしているとおりだ。

 新渡戸稲造の生涯は、誠実に生きることの難しさを、現代の我々に教えてくれる。