『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』
以前に『それでも、日本は「戦争」を選んだ』という本を紹介した。この本は2009年の出版だった。本欄に執筆子が紹介したのは、かなり遅くおそらく2012年か2013年ごろだろうと思う。その本の続編が昨年出版された。
『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』
(加藤陽子著)(朝日出版社)(2016年7月29日発行)
- 作者: 加藤陽子
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 2016/08/09
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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本書も前書(『それでも、日本は「戦争」を選んだ』)と同じく、東京大学の加藤陽子先生が中高生へ特別講義をした時の講義録という形式を取っている。
前書は日本が“もはや戦争しかない”と決めてしまったこの過程を考察したものである。そして本書は、戦争に至るまでの3つの外交(交渉事)について考察し、その交渉を通じて日本の失敗を浮き彫りにしようとしたものである。前書もそうであるが、本書も中高生を相手にことばを選んでいるのでとてもわかり易い。
- 作者: 加藤陽子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2016/06/26
- メディア: 文庫
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3つの外交交渉とは何か。
1)リットン調査団(1932年(昭和8年))
2)日独伊三国同盟調印(1940年(昭和15年))
3)日米交渉(1941年(昭和16年))
この3点の外交交渉をみていき、そこでの日本の選択および相手国の選択、それが結局は戦争になり、そして日本の敗戦へとつながる、その過程を考える。結果的に日本は戦に負け、国のしくみを変えるということになった。
リットン調査団の報告書が公表されたとき、日本はまだまだ全面戦争を避ける余地があった。交渉に費やす時間もあったし、妥結の余地も充分にあった。しかし、そうはならなかった。
リットンの報告書には満州国を維持するために、日本軍は常時、満州国に駐留しなければならない、その理由はソ連や中国共産党から日本の国益を守るためだ、というが、この日本軍の役割を国際連盟が主催する、「特別憲兵隊」にまかせてはどうか、という提案を報告書でしているのだ。このしくみは現在のPKOのはしりにもなる、有益な提案といえよう。日本は満州国という日本の属国に固執するあまり、駐留に伴う国際的非難やそれに掛かる経費を無視してしまった処にまず間違いがあった。この1932年(昭和8年)という時期はまだ、蒋介石率いる国民党政府と交渉できる余地はたくさんあったとみる。日本はみすみすその機会を逃した。
日独伊三国同盟調印のときはすでに欧州で戦争が始まっている。ドイツはソ連と不可侵条約を結び、西部戦線に注力している。オランダもベルギーもフランスもドイツの電撃作戦により、あっという間に占領されてしまった。となると東アジアにあるオランダとフランスの植民地はどうなるのか? 基本的にはドイツのものになるのであろう。日中戦争をめぐりアメリカと対立している関係上、日本は蘭領東インド(現在のインドネシア)の石油資源がほしい。そしてそのために仏領インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)を中継基地にしたい。ドイツ領になるかもしれない、これらの仏蘭植民地を我が物にしたいために三国同盟を締結した、ということがことの真相らしい。決して仮想敵国のアメリカへの牽制だけではない。ということが本書を読んで初めてわかった。東洋のことは日本に、西洋のことは独伊に、ということがこの同盟の趣旨だった。
そして、日本が進む道は、ドイツと提携をしていくことなのか、それとも英米と提携するのか、ということを1940年(昭和15年)の時点でもまだ、選択できる状況にあった、ということがわかる。
太平洋戦争開戦前夜とも云うべき時に、日本はアメリカと真剣に交渉をしている。それはアメリカとの戦争を避けるためである。少なくとも日本の海軍はアメリカとは戦争をしたくなかった。工業力に圧倒的な差がある。1941年(昭和16年)の年末12月8日が真珠湾攻撃の日である。この年の10月くらいまではぎりぎり戦争回避の分岐点がいくつも日本の目の前に広がっていた。5月や6月にはアメリカのルーズヴェルト大統領と日本の近衛首相の頂上会談をハワイで行おう、という処まで進展があったという。日米が合意できるのは反共という立場であり、ここはまったく一致している。中国大陸においては、満州国以来日本軍の駐留がアメリカとの主な対立点であることは間違いない。いったい、日本はなぜ中国大陸で戦争をしているのか。日本は大陸での戦争の大義名分がいつしかなくなっていることに気づかずにいた。中国共産党が勢力を伸ばしているときに日本は蒋介石の国民党と戦をしている場合ではなかったはずだ。
決定的な読み間違いは、この年の7月28日に日本は南仏印に進駐したことだろう。間髪入れず8月1日にアメリカは石油の全面禁輸に踏み切る。日本は南仏印を占領してもアメリカは怒らないと高をくくっていた。そしてアメリカ側の読み間違いは、アメリカが最後通牒とも云うべき、ハル・ノートを日本に送ったことだろうか。アメリカは日本がこれによって強硬な姿勢を緩和させるだろうと高をくくっていた。まさか勝ち目のない戦争を仕掛けるとは思っていなかった。
日米交渉において、反共という立場で一致するものの、日本はアメリカと妥協することが可能だったのであろうか。
キーワードは自由貿易と資本主義ということであろうか。貿易をしてこそ日本が繁栄する唯一の道である、ということを国民全員が自覚したとき、日米交渉は成功したであろう。軍隊を他国に駐留させて戦争をする、ということがどれだけ高くつくかをもっともっと自覚すべきだった。そのためには自国のみではなく他国の幸福も謳っていたアメリカの主張に耳を貸すことが肝要だったのだろう。
どんな世の中だろうと、「世界の道」を示した処に勝算があるのだ。つまり普遍的な理念を具体化して第三者にも利益が出るようなしくみを作った方が勝つのである。
世界に通用するような普遍的な理念を掲げるためには国民にすべてを知らせないといけない。自国民が知らないようなことを他国には云えない。