「ルードヴィッヒ(Ludwig)」

「ルードヴィッヒ(Ludwig)」(1972)ルキノ・ヴィスコンティ

237分。4時間の長尺映画であるが、当初からこの長さではなかったようだ。
ヴィスコンティが完成させたとき、配給会社から長過ぎる、とクレームが付き、
ヴィスコンティは泣く泣く184分(3時間)に削ったという。
この4時間の尺に復活したのは、2006年にヴィスコンティ生誕100年記念事業のとき。あらためてネガフィルムからおこしたものだという。
確かに長い。そして素人でもわかるほど必要のないカットがある。ルードヴィッヒの狂気と孤独をこれでもかとみせつける。

脚本家以下スタッフがイタリア人だったので、オリジナルはすべてイタリア語になっている。
アルプス以北の陰鬱なドイツの地でひとり孤独を愛し、狂人の如く振る舞っていたルードヴィッヒが賑やかなイタリア語で喋るのは、日本人の私たちにするとそれほどでおかしきものではないが、ヨーロッパの人びとにはどんな様子に映っているのだろうか。
王が従者に「ありがとう」というのはドイツ語なら「danke」(ダンケ)だが、映画はイタリア語なので「grazie」(グラッツェ)。やっぱい違和感があるのだろうと思う。

エリザベートロミー・シュナイダー)が美しい。ドイツ人だがフランスの女優さん。

高貴さと官能の香り。両方を兼ね備えた女優だ。他の演技をみてみたい。危険な薔薇か、それとももしかしたら平凡なすみれかもしれない。他の映画を観ないとわからない。

ルードヴィッヒはヴィスコンティのお気に入り、ヘムルート・バーガー。時間を追うにしたがって王の威厳が備わり、高貴な所作が自然にみえる。狂気の目は恐ろしいほどだ。むろんメイクもあるだろうが、演技力のなせる技だろう。その演技力は壮麗で荘厳なヨーロッパの城でのロケの賜物だと思うのだ。渾身の力で演じているのがよくわかる。しかし演技している、ということが観客にわかってしまってはいけないものなのだが。

ワーグナーの音楽がところどころ挿入されている。これが素晴らしい効果を生み出している。ワーグナーとの関係はルードヴィッヒの大事な主題のひとつ。ワーグナーがルードヴィッヒを狂気に陥れた、と云えなくもない。

ルードヴィッヒが愛した女性はだだひとり。従姉妹で年上のオーストリアハプスブルク家に嫁ぎ王妃となったエリザベートだけだった。あとは男色。ヴィスコンティが投影されていると思うのは穿ち過ぎか。しかしルードヴィッヒがバイセクシャルだったのは歴史的な事実であることは証明されている。

ルードヴィッヒとエリザベート。ふたりの描き方が出色だと思う。複雑な感情のひだを見事に表現している。監督のヴィスコンティに乾杯。二杯目は演じたヘムルートとロミーに乾杯。

ルードヴィッヒが生きた時代は、ヨーロッパが王の時代から近代立憲主義へ移行する、まさにそのときであり、王は統治せず、君臨するだけの存在になっていった。さらに各王国がひしめき合っていたドイツではプロシア王国主導で統一大ドイツ帝国が出来上がる時期だった。バイエルン王国のルードヴィッヒ王はもはやなにもやることがなくなった。ルードヴィッヒ王が耽美で虚無的になったのは歴史の必然と云えるだろう。

歴史を知ればこの映画をますますおもしろく観ることができる。

平成29年10月2日 新文芸坐にて鑑賞

 『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』

 以前に『それでも、日本は「戦争」を選んだ』という本を紹介した。この本は2009年の出版だった。本欄に執筆子が紹介したのは、かなり遅くおそらく2012年か2013年ごろだろうと思う。その本の続編が昨年出版された。

『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』
加藤陽子著)(朝日出版社)(2016年7月29日発行)

戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗

戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗

 本書も前書(『それでも、日本は「戦争」を選んだ』)と同じく、東京大学加藤陽子先生が中高生へ特別講義をした時の講義録という形式を取っている。
 前書は日本が“もはや戦争しかない”と決めてしまったこの過程を考察したものである。そして本書は、戦争に至るまでの3つの外交(交渉事)について考察し、その交渉を通じて日本の失敗を浮き彫りにしようとしたものである。前書もそうであるが、本書も中高生を相手にことばを選んでいるのでとてもわかり易い。

 3つの外交交渉とは何か。
1)リットン調査団(1932年(昭和8年))
2)日独伊三国同盟調印(1940年(昭和15年))
3)日米交渉(1941年(昭和16年))
 この3点の外交交渉をみていき、そこでの日本の選択および相手国の選択、それが結局は戦争になり、そして日本の敗戦へとつながる、その過程を考える。結果的に日本は戦に負け、国のしくみを変えるということになった。

 リットン調査団の報告書が公表されたとき、日本はまだまだ全面戦争を避ける余地があった。交渉に費やす時間もあったし、妥結の余地も充分にあった。しかし、そうはならなかった。
 リットンの報告書には満州国を維持するために、日本軍は常時、満州国に駐留しなければならない、その理由はソ連中国共産党から日本の国益を守るためだ、というが、この日本軍の役割を国際連盟が主催する、「特別憲兵隊」にまかせてはどうか、という提案を報告書でしているのだ。このしくみは現在のPKOのはしりにもなる、有益な提案といえよう。日本は満州国という日本の属国に固執するあまり、駐留に伴う国際的非難やそれに掛かる経費を無視してしまった処にまず間違いがあった。この1932年(昭和8年)という時期はまだ、蒋介石率いる国民党政府と交渉できる余地はたくさんあったとみる。日本はみすみすその機会を逃した。

 日独伊三国同盟調印のときはすでに欧州で戦争が始まっている。ドイツはソ連と不可侵条約を結び、西部戦線に注力している。オランダもベルギーもフランスもドイツの電撃作戦により、あっという間に占領されてしまった。となると東アジアにあるオランダとフランスの植民地はどうなるのか? 基本的にはドイツのものになるのであろう。日中戦争をめぐりアメリカと対立している関係上、日本は蘭領東インド(現在のインドネシア)の石油資源がほしい。そしてそのために仏領インドシナベトナムラオスカンボジア)を中継基地にしたい。ドイツ領になるかもしれない、これらの仏蘭植民地を我が物にしたいために三国同盟を締結した、ということがことの真相らしい。決して仮想敵国のアメリカへの牽制だけではない。ということが本書を読んで初めてわかった。東洋のことは日本に、西洋のことは独伊に、ということがこの同盟の趣旨だった。
 そして、日本が進む道は、ドイツと提携をしていくことなのか、それとも英米と提携するのか、ということを1940年(昭和15年)の時点でもまだ、選択できる状況にあった、ということがわかる。

 太平洋戦争開戦前夜とも云うべき時に、日本はアメリカと真剣に交渉をしている。それはアメリカとの戦争を避けるためである。少なくとも日本の海軍はアメリカとは戦争をしたくなかった。工業力に圧倒的な差がある。1941年(昭和16年)の年末12月8日が真珠湾攻撃の日である。この年の10月くらいまではぎりぎり戦争回避の分岐点がいくつも日本の目の前に広がっていた。5月や6月にはアメリカのルーズヴェルト大統領と日本の近衛首相の頂上会談をハワイで行おう、という処まで進展があったという。日米が合意できるのは反共という立場であり、ここはまったく一致している。中国大陸においては、満州国以来日本軍の駐留がアメリカとの主な対立点であることは間違いない。いったい、日本はなぜ中国大陸で戦争をしているのか。日本は大陸での戦争の大義名分がいつしかなくなっていることに気づかずにいた。中国共産党が勢力を伸ばしているときに日本は蒋介石の国民党と戦をしている場合ではなかったはずだ。
 決定的な読み間違いは、この年の7月28日に日本は南仏印に進駐したことだろう。間髪入れず8月1日にアメリカは石油の全面禁輸に踏み切る。日本は南仏印を占領してもアメリカは怒らないと高をくくっていた。そしてアメリカ側の読み間違いは、アメリカが最後通牒とも云うべき、ハル・ノートを日本に送ったことだろうか。アメリカは日本がこれによって強硬な姿勢を緩和させるだろうと高をくくっていた。まさか勝ち目のない戦争を仕掛けるとは思っていなかった。
 日米交渉において、反共という立場で一致するものの、日本はアメリカと妥協することが可能だったのであろうか。
 キーワードは自由貿易と資本主義ということであろうか。貿易をしてこそ日本が繁栄する唯一の道である、ということを国民全員が自覚したとき、日米交渉は成功したであろう。軍隊を他国に駐留させて戦争をする、ということがどれだけ高くつくかをもっともっと自覚すべきだった。そのためには自国のみではなく他国の幸福も謳っていたアメリカの主張に耳を貸すことが肝要だったのだろう。

 どんな世の中だろうと、「世界の道」を示した処に勝算があるのだ。つまり普遍的な理念を具体化して第三者にも利益が出るようなしくみを作った方が勝つのである。
 世界に通用するような普遍的な理念を掲げるためには国民にすべてを知らせないといけない。自国民が知らないようなことを他国には云えない。

 『夢遊病者たち −第一次世界大戦はいかにして始まったか−』(2巻)

 先月に引き続き、『夢遊病者たち −第一次世界大戦はいかにして始まったか−』の下巻(2巻)を読む。2巻には事項索引と人名索引がついているから少しは読みやすかった。
 下巻は戦前のそれぞれ列強の動きを解説し、サライエヴォでのオーストリア皇太子夫妻の暗殺事件の様子を詳細にみて、その後宣戦布告までの1ヶ月間のヨーロッパの動きを丁寧に追う。

夢遊病者たち −第一次世界大戦はいかにして始まったか−』(2巻)
(クリストファー・クラーク 著)(小原 淳 訳)(みすず書房)(2017年1月25日発行)
『THE SLEEPWALKERS−How Europe Went to War in 1914』(Christopher Clark)(2012)

夢遊病者たち 2――第一次世界大戦はいかにして始まったか

夢遊病者たち 2――第一次世界大戦はいかにして始まったか

 2巻の各章は以下の通り。
第5章 バルカンの混迷
第6章 最後のチャンス−デタント(緊張緩和)と危機 1912〜14
第7章 サライェヴォの殺人
第8章 広がる輪
第9章 サンクトペテルブルグのフランス人
第10章 最後通牒
第11章 威嚇射撃
第12章 最期の日々

 我々日本人はあまり知られていないが、バルカン戦争という局地戦が1914年の第一次世界大戦の前に行われていた。バルカン戦争は2度行われている。最初の第一次バルカン戦争(1912.10−1913.05)はトルコ帝国から独立したブルガリアギリシャモンテネグロセルビアオスマントルコ帝国と戦争であり、第二次バルカン戦争(1913.06−1913.08)は第一次バルカン戦争でほとんど一人勝ちして領土を広げたブルガリアへの不満からギリシャモンテネグロセルビアブルガリアを攻めた戦争である。そして翌年勃発する第一次世界大戦は、いわば第三次バルカン戦争とも云える。つまり、今回はアドリア海に面したボスニア・ヘルツェゴビナオーストリア帝国保護領化した。このことが隣国のセルビアを大きく刺激した。セルビアは自国の領土を広げたいと願っていた。そこにロシアが登場する。ロシアという列強が登場することによって英仏という列強も加わり、さらに独伊が介入する。こうして役者が揃い、丁々発止の外交戦を戦わす。汎スラブ主義を標榜するセルビアはロシアを兄として慕い、是非にもオーストリアの横暴を食い止めてほしいと願う。オーストリアはロシアに対してトルコの両海峡の優先的な通行権を認める代わりにボスニア・ヘルツェゴビナ保護領をロシアに認めてもらうように交渉する。ロシア内部は親セルビアか親オーストリアのふたつに分かれて論争が始まる。結局、露独墺(ロシア・ドイツ・オーストリア)の三国は皇帝をいただき、彼に主権が存する19世紀的な君主国なのだ。したがって、同じ体制としてシンパシーを感じている人が多い。ロシアの野望はボスポラス・ダーダネルス両海峡を手に入れること。しかしこれにはロシア以外の国々がこぞって反対している。特にイギリスはロシアの南下を抑えることが国是であり、外交政策の基本なのだ。その両海峡を領土にしている黄昏のオスマントルコ帝国。かの国はこの両海峡の守備をドイツに任せようとした。ロシアで起こる大規模な反対運動。今にもロシアが攻めてくるという不安にさいなまれるトルコ。そしてもちろん両海峡をドイツにも渡したくないイギリス。一方でセルビアを海に出したくないオーストリアはそのためにボスニア・ヘルツェゴビナを自国の保護領としたのだ。しかしあまりにも周囲の軋轢が大きく自国だけではボスニア・ヘルツェゴビナを統治できないのがオーストリアの悩みの種だった。オーストリアはどうしてもドイツに援助を依頼したくなる。ドイツはイギリスとの海軍拡張競争をしており、積極的にはオーストリアの援助はしたくない。しかしやはり同じゲルマン民族の国同士、オーストリアを見放すことはできない。さて、フランスである。フランスの対外政策は対ドイツ包囲網を構築することにある。根強い反独意識がフランスの外交政策の基本だ。ドイツに不利益になることは何でもする。ドイツを挟んで東側のロシアと同盟を結ぶ(露仏協商)。ドイツの同盟国であるオーストリアに対抗するためにバルカン半島の小国に積極的に借款を施し投資する。この時期フランスの外交政策を決定していたポアンカレは、ロシアとの同盟を強化し、軍備を増強し、ドイツと徹底的に対立する道を選んだ。バルカン半島での対立を局地の対立にとどめたいのはイギリスであり、ドイツであるが、それを大きな対立にしたいのはフランスであった。バルカンにおけるオーストリアとロシアの対立を局地的なものに留めず、ドイツを引っ張り出し、ドイツに一撃を与えるのが、フランスの究極の目標になった。ドイツはロシアをフランスから遠ざけたい。皇帝が従兄弟同士なので、とてもよい友情がふたりにある。ニッキー(ニコライ?世)とウィリー(ヴィルヘルム?世)と呼び合っている。この皇帝同士の関係で両国関係を発展させたいと願っている一派があるが、一方ではそれぞれ相手の国に対する根強い不信感(対独不信と対露不信)があり、相手国の勢力を削ぐ方策を進める一派もある。それぞれの国で政権内の権力争いが起こる。そしてふたつの勢力の間で揺れる皇帝。ドイツでもロシアでも同じ様相を呈している。結局は皇帝の友情よりも帝国主義の力学が勝り、戦争になってしまうが。ドイツはフランスとことを構えたくないのか、フランスとの一戦も辞さず、ということなのか。バルカン半島ではオーストリアの後押しをするが、対フランスとの戦争はかなり負担を強いられるのは目に見えている。フランスには強固な要塞がたくさん存在するので、フランスに攻め込むためにはどうしても中立国のベルギーの国土を通過しなければならなくなる。そうなれば大陸での対独戦争になってときに中立を約束しているイギリスは確実にドイツに宣戦布告する。ドイツの決定は最後には“男らしさ”で決まってしまったようだ。つまり、戦争を回避する女々しい方策ではなく、断固男らしく戦争をする、という決定だった。
 そしてサライエヴォの事件が発生する。
 オーストリア皇太子夫妻がボスニア・ヘルツェゴビナサライエヴォでセルビア人青年によって暗殺されたのは、1914年6月28日。オーストリアセルビアに宣戦を布告したのは、7月28日。7月31日にドイツはロシアに最後通牒。8月1日、ドイツ、ロシアに宣戦布告。8月2日、ドイツ、ルクセンブルクに侵攻。8月3日、ドイツ、フランス、ベルギーに宣戦布告。8月4日、ドイツ、ベルギーに侵攻。イギリス、ドイツに宣戦布告。・・・・・
 暗殺事件からすぐに戦争が始まったわけではない。この一ヶ月間、各国の首脳はめまぐるしく仕事をしていた。本書の後半300ページは戦争までの一ヶ月間の出来事を追っている。世界戦争は避けることができず、ついに起こってしまった。

 本書は、なぜ戦争が始まったのか、を考察していない。いかに始まったのか、を淡々と記述している。それは見事だ。読み終えると、戦争になったのは仕方なかった、という気になる。なぜ戦争が始まったか、と原因を探ることは戦争を回避するために何が足りなかったか、という視点を避けて通ることはできないが、本書は最初からそれをしていない。もともと『夢遊病者たち』が戦争に至る道をすすんでしまったわけで、戦争の原因は、そういう夢遊病者がちが当時、各国の政策決定担当者になっていたことにある、としているわけだ。
 本書の結論はこうなっている(本書832ページ)。
 “彼らは用心深かったが何も見ようとせず、夢に取り憑かれており、自分たちが今まさにもたらそうとしている恐怖の現実に対してなおも盲目だったのである。”
 何も見ようとせずに、現実に盲目だったこの戦争へ至る過程の数年間を800ページを超える大著にまとめた筆者に最大限の敬意を表する。

The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914

The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914

 『夢遊病者たち −第一次世界大戦はいかにして始まったか−』(1巻)

 たいへんな本を手にとってしまった。全2巻(844ページ)の大著である。しかも翻訳本。そして発行元は学術書を出版しているあの、みすず書房。とくれば、どれだけ硬い本なのだ、と想像がつく。タイトルをみて、ふらふらとこの本に近寄ってしまった、執筆子としてはぜひこの本の書評をものにしてみたい、という熱い思いが続いている。しかし、7月10日現在、まだ読み終わっていないのだ。仕方がないので、あまり例はないが、本書は上下の2巻に分かれているので、今回は1巻だけの紹介をしようと思う。

夢遊病者たち −第一次世界大戦はいかにして始まったか−』(1巻)
(クリストファー・クラーク 著)(小原 淳 訳)(みすず書房)(2017年1月25日発行)
『THE SLEEPWALKERS−How Europe Went to War in 1914』(Christopher Clark)(2012)

 本書は全12章からなっている。そのうち1巻は4章分になり、残りの8章が2巻の登載である。1巻の各章は以下の通り。
第1章 セルビアの亡霊たち
第2章 特性のない帝国
第3章 ヨーロッパの分極化 1887〜1907
第4章 喧々囂々のヨーロッパ外交
 本書は19世紀の末から第一次世界大戦が勃発した1914年までのおよそ20年間のヨーロッパの政治家たちの動きを時間(時系列)と空間(地域別)でそれこそ縦横無尽に表現している。そのとき、その立場にいたその人たちの発言や行動、ひとつひとつが、1914年の大戦勃発への原因となっていく。彼らは自分の発言と行動に責任を持たなかったので、それこそ「夢遊病者」だったわけだ。責任を取らない政治家たち。それが大戦の悲劇を産んだ。

夢遊病者たち 1――第一次世界大戦はいかにして始まったか

夢遊病者たち 1――第一次世界大戦はいかにして始まったか

 第一次世界大戦では、主な戦場がヨーロッパであり、日本は遠い異国での戦争、というイメージである。実際にこの戦争の原因がなにかは、学校でしっかり教わった記憶がない。“一発の銃弾が大戦の引き金となった”・・・というような表現で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻がサラエボにおいてセルビア人の青年に暗殺されたことを学習した。そして当時のバルカン半島は“火薬庫”であり、ほんの些細なことで大爆発を起こす危険がある、というようなことを学んだ。実際に、オスマン帝国オーストリア=ハンガリー帝国という、長くこの地を治めていた両帝国の勢力が弱まり、この地のさまざまな民族が自立を願ったこと。つまりナショナリズムの台頭があり、そして墺(オーストリア)と土(トルコ)以外にそこに英仏独露伊という帝国主義時代の列強と云われる大国が自国の利益を優先させた外交政策を取り、それら列強の思惑と自立の願うそれぞれの民族の行動が複雑に絡み合いバルカン半島をして、火薬庫にさせしめていた。
 話は脇に逸れるが、帝国主義時代と云われるこの時代、国名を英米仏伊独露蘭白墺土と表現するとピタッとくる。英仏露の三国協商に独墺伊の三国同盟のような表現だ。たくさんの国名が出てくるので漢字一文字の略称は素晴らしいアイデアだと思う。そしてこの乱暴な当て字略称は大国の横暴とそれが結果的に弱い者いじめになったこの乱暴な帝国主義時代を端的に表わしているように思えるのだ。
 閑話休題
 この1巻は、第一当事国のセルビアオーストリアの王族や政治家たちの派閥争いが細かく描かれている。スラブ人の名前、ドイツ系の名前が入り乱れる。王さま、皇太子、首相、外相、陸相参謀総長、各地の駐在大使たち。名前を覚えることを放棄しないと読み通せない。前に進まないのだ。人名索引は2巻にある。しかし1巻にも人名索引を付けてくれたらよかったのに・・・・・。

 そのような政策決定者たちはいかにしてこの大戦を始めてしまったのか?ということを本書はテーマにしている。本書の「序」を少し長くなるが引用したい。
 “「いかに」という問いは、一定の結果をもたらす一連の相互作用を間近で観察するよう、我々をいざなう。対照的に「なぜ」という問いは、帝国主義ナショナリズム、軍備、同盟、巨額の融資、国民的名誉の思想、動員の力学といった、ばらばらのカテゴリー別の諸要因を分析するよう、我々をいざなう。「なぜ」からのアプローチは一定の分析上の明確さをもたらすが、理解を歪める効果もある。この場合、諸々の原因が次々と上に積み重ねられ、諸々の事実を下に押しやることになる。・・・・・本書が語る物語はこれとは反対に、何らかの作用を及ぼした人物たちで満たされている。”
 大勢の政策決定者たちがヨーロッパを少しずつ危機に向かって進めていった。それを本書は可能な限り描写している。
 例えば、セルビア国の首相のニコラ・パシッチの性格描写はこう書かれている。「秘密主義で、こそこそしていて、うんざりするほど慎重」。・・・・・このような人物がセルビアを動かしていた。彼は自国の利益よりも自分の利益を優先していたきらいがある。つまり、セルビアの利益が多少損なわれても自分の地位を保つことを最優先とした行動と発言をしていた、ということだ。
 そのセルビアは、汎スラブ主義(スラブ民族で統合しようとする立場。ナショナリズム。ロシアと友好。オーストリアと対立。)と親オーストリア派とあったが、汎スラブ派が影響力を強めてきた。それは取りも直さず、戦争の危険が迫ることに直結している。
 オーストリアは、多民族国家なので、ナショナリズムを嫌うが、そもそも複雑な国家として巨大すぎるし、どう行動すれば、国の利益になるか、というビジョンが欠けた国のようであり、その意味で老大国といってよい。
 フランスは共和制であり、イギリスの国王は政治に口を挟まない。オーストリアとドイツ、それにロシアは皇帝をいただく帝国であり、最終決定は皇帝にある。それはつまり、どの派閥が王を取り込むか、ということになる。このことは簡単に想像がつくし、本書はその派閥争いにほとんどのページを費やしている。これにあとさきを考えない血の気の多い無鉄砲なセルビア人のドタバタが入る。まったく大いなる人間模様が描かれているのだ。
 セルビアブルガリアルーマニアなどバルカン半島の小国の立場があり、考えがある。いかに自国に有利(領土を広げること、通商を有利な条件で行うこと)な条件を相手に飲ませるか。また列強の立場もある。例えばロシアは例のダーダネルスボスポラス両海峡の通行権の確保が最大の悲願。こんな風に各国の立場をこの場で書いていたら、切りがなく、それこそ本書を読んでください。ということだ。
 本書はまさに“いかにして”第一次世界大戦が始まったのか、が細かく描写されている本なのである。

The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914

The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914

 『明治のサムライ −「武士道」新渡戸稲造、軍部と戦う−』

新渡戸稲造、という人に興味があった。樋口一葉の前の5,000円札の人である。

 昭和59年から平成16年まで流通していた。そもそもこのときに新渡戸稲造って誰だか知らなかったし、『武士道』の作者だった、とか、国際連盟の事務局次長だったとか、経歴について断片的に知ることになったけれど、その後も特に伝記を読んだわけではなく、そのままにしていたが、やはり気になってはいたので、これを機会に新渡戸稲造について書かれた一冊の本を手に取ることにした。

『明治のサムライ −「武士道」新渡戸稲造、軍部と戦う−』
(太田尚樹 著)(文藝春秋社)(文春新書)(2008年)

新渡戸稲造。教育家。農政学者。
1862年文久2年)盛岡生まれ。
1877年(明治10年札幌農学校の二期生入学(15歳)。その後東京大学へ。
1884年明治17年)米国ジョンズ・ホプキンス大学留学(22歳)。
1887年(明治20年)独ボン大学へ(25歳)。
1891年(明治24年)結婚(米国人メリー・エルキントン)。帰国。札幌農学校教授(29歳)。
1900年(明治33年)英文『武士道』出版。ヨーロッパ視察(38歳)。
1901年(明治34年台湾総督府民生部殖産局長心得(39歳)。
1906年明治39年)第一高等学校校長就任(44歳)。
1918年(大正7年)東京女子大学初代学長(56歳)。
1920年(大正9年)国際連盟事務次長(58歳)。
1926年(大正15年)国際連盟事務次長を退任。貴族院議員(64歳)。
1929年(昭和4年)太平洋調査会理事長(67歳)。
1933年(昭和8年)カナダ・ビクトリア市にて客死(71歳)。

 新渡戸稲造の印象。彼について現代の日本人はどれだけ知っているのだろう。

「武士道」新渡戸稲造、軍部とたたかう 明治のサムライ (文春新書)

「武士道」新渡戸稲造、軍部とたたかう 明治のサムライ (文春新書)

 5,000円札の肖像画の人(これでさえ、替わってからもう10年以上経っている)。『武士道』の著者(このことを知っている人は多いだろうが、実際にこの『武士道』を読んだ人はおそらくぐっと少ないだろう)。国際連盟事務次長(日本人にとって国際連盟の印象はあの松岡外相による脱退の情景に尽きるのではないだろうか)。

 いずれにしても幕末に朝敵だった盛岡の武士の家に生まれて、さまざまな所で学び、英語が堪能で、教育家、そして有能な官吏であり、明治大正昭和を生きた新渡戸稲造は半ば忘れられた偉人、と云っていいかもしれない。もったいないことだと思う。

 新渡戸稲造は、札幌農学校での課程を終えて、東京大学に入学する時の面接で、「太平洋の橋になりたい」と述べて、面接官を驚かせた。日本と西洋。日本の長所を西洋に紹介し、西洋の長所をどしどし輸入する、そのような橋渡しの役をやりたい、ということだった。経歴をみると、まさしくその希望に沿った人生を歩んだ、と云えるだろう。

 本書は、そんな新渡戸稲造の生涯を追いながら、彼の取った行動を彼の思想から考察する。新書版なので、一般向けにわかりやすく書かれている。

 新渡戸稲造と云えば、『武士道』が有名である。この『武士道』を彼はなぜ書いたのか。という疑問がある。日本人の行動様式、思想形成に大きな影響を与えているのは、特定の宗教とではなく、武士の行動様式、武士の思想による処が大きい。と看過したからに他ならない。英語で書かれたこの本は出版時期が日露戦争後だった、ということも重なり、全世界で大いに読まれたらしい。

 日本人の知識層は、西洋の唯一絶対神を信じるキリスト教と対立を求めず相対的な仏教や神道の影響を受けた日本独自の精神と、このふたつの思想が自分の中で相克している状況であり、それは開国したときから始まって、未だにそのふたつを抱えている。そして新渡戸稲造がまさにその典型であるように映る。

 彼の晩年(国際連盟事務次長を退任してから。それは時代が昭和に入ったときと重なる)に、彼は満州事変や上海事変を起こした軍部を憎み、国内では軍部を批判したが、外では日本の取った行動に理解を示し、日本の立場を擁護している。個人の意志に反した行動を取ることは、すなわち新渡戸の中に時代の雰囲気、時勢というようなものが反映されていたのであろう。日本の精神が誇張され、過大に評価され、「愛国心」ということばに収斂されてしまう、結果として一度は日本を滅ぼした思想に、新渡戸でさえ抗えなかったことの証左であろうと思われる。

 この晩年の新渡戸が体験した時代の雰囲気は、どこかいまの日本の雰囲気に似ていることは、さまざまな人が警鐘を鳴らしているとおりだ。

 新渡戸稲造の生涯は、誠実に生きることの難しさを、現代の我々に教えてくれる。

 『生き残る判断 生き残れない行動−大災害・テロの生存者たちの証言で判明』

 今月はサバイバルの本。生存していくための手引書を紹介する。
 大地震、大津波、大噴火。それから大事故やテロリズム。その場に居合わせた人々は、否応なく巻き込まれ、死んでしまうか、はたまた幸運にも生き残れるか。死と生存の差はなんなのか。死者と生存者との境界線はどこに引かれているのか。・・・・・・そういうことを考察しながら、死なないための方法が書かれた本。
 書いたのはアメリカ人の女性ジャーナリストで出版された年は2008年。

『生き残る判断 生き残れない行動−大災害・テロの生存者たちの証言で判明』
(THE UNTHINKABLE Who survives when disaster strikes-and why)
(アマンダ・リプリー 著)(Amanda Ripley)(岡真知子 訳)
(光文社)
(2009年12月初版 2011年7月6刷)(2008年)

生き残る判断 生き残れない行動

生き残る判断 生き残れない行動

The Unthinkable: Who survives when disaster strikes - and why

The Unthinkable: Who survives when disaster strikes - and why

 原題が示している“想像もつかない−大災厄に襲われたとき、誰が生き残ったか そしてなぜなのか”という表現がそのまま日本語版の副題に適している。
 9.11、ハリケーン カトリーヌ、ドミニカに置ける米大使館占拠事件・・・ets.
 著者は、さまざまな災厄のその現場にいた人たちにインタビューして、危機管理や心理学の専門家に話を聞いて、本書をまとめている。
 本書は、防災の本ではない。災厄の最中に何が起きているのかを観察して、そこから生存への行程を導き出そうとする、とても意欲に富んだ書物である。

 死の危険がそこに迫ったとき、人はどうするのか?
 著者は、そのとき人は3つの段階を踏みながら、生き抜いていく。3つの段階を経て生還する。という。その3つの段階とは「否認」、「思考」、「決定的瞬間」・・・と表現された現象であり、この3つの段階を経ないと生存はできないのではないか、と考えている。
 人は何か大きな災厄に見舞われたとき、まず「否認」するという。自分は今とんでもない災厄の中にいる、ということ自体を否定してしまうのだ。この「否認」の状態のままで次の段階に進めなかった人は限りなく生存の可能性は低い。生存者は大なり小なり「否認」の段階から次の「思考」の段階へ進んでいる。そのきっかけは、隣の人の放った発言だったり、外の風景が目に飛び込んだりすることだったりする。そして、それによって次の「思考」段階へと移行していく。
 異常事態の中で、脳の働きはどうなっているのだろうか。生存者の証言とさまざまな実験によって、いろいろ解明されてきた。人はそのとき、生存のために何を選択するのだろうか。その場から逃れるのか、それともそこに留まるのか。一般的に云えば、生存のためには逃げる=避難、と考えるのであろうが、逃げたために(動いたために)格好の標的になり、殺されてしまうこともある。日本ではそういう事例はめったにないが、米国ではしばしば銃の乱射事件が起こる。犯人は逃げようとしてあたふたと移動している人から殺している。そして“死んだふり”をして微動だにしない人が助かったのだ。死んだふりをした人は、動いて殺さている人の様子を見て、「否認」状況から「思考」段階へと移行して、そして助かった。
 「思考」は「回復力」と云い替えてもよいかもしれない。「否認」の段階から「思考」に移行した人は、つまり脳を含めた身体が生存への欲求を取り戻し、正常に活動し始めたと考えるとわかりやすいと思う。
 さて、危機的状況のときに、何もしない状況(否認)を抜け出してどう行動すれば助かるか、と考えること(思考)まで達した人は、次にそれを行動に移すばかりとなる。行動を起こすときこそが、第3段階の「決定的な瞬間」なのだ。
 助かった人は、なぜ他の人たちよりもはるかに適切な行動を取れたのだろうか。それをさまざまな事例を紹介して解き明かしていく。本書の核心部分といっていい。
 そして、それらの事例から導き出された本書に書かれている生還するために最も大切なこと。結論を書いてしまおう。とても大切なことだから。

 あらかじめ何度も繰り返して練習すること

 これに尽きる。
 当たり前に云われていることなので、肩すかしを喰らってしまった。“適切な事前の計画と準備は、最悪の行動を防ぐ”。・・・・・ということだが、このあたり前のことができていないし、やらせる側もやる側も力を出してやっていなし。ラジオ体操は精一杯行えば、終わったときに汗をかく。でも手と足を適当に動かしているだけ(やったふり)では、なんにもならない。・・・・・ちょうどそれと同じだ。
 私たちの立場で云えば、災害の避難訓練を繰り返し行いなさい、ということである。火災に対する避難訓練地震に対する避難訓練津波に対する避難訓練。・・・・・これらの避難訓練はすべてその逃げる場所や逃げ方が違う。火災の場合、初期消火に失敗したらとにかく逃げなくてはいけない。どこに逃げるかは延焼類焼状況によって異なる。そのときその場の判断である。地震の場合は、どうすればいいか?その建物が倒壊の危険があればどこに逃げるのか。倒壊の危険がなければ、その場に留まるのか。そして火災の危険も発生する。災害は1つではない。津波の場合は、とにかく高いところへ。
 どれも何度も繰り返すことが大切。考えなくても身体が勝手に動く、という、あれだ。

 自分の住んでいる場所を知り、何に対する備えをすればいいかをよく考えてみよう。そこには活断層はあるのか。そこは地盤が緩いのか。そこは盛土ではなのか。そこは木造密集地か。そこは0メートル地帯か。・・・・・それぞれ調査して観察して最善の備えをし、そして繰り返し助かるための練習をする。
 本書を通じて、さまざまな災厄から生還した人たちのたくさんの事例をみてきた。そして本書の結論である「あらかじめ何度も繰り返して練習すること」を激しく共鳴した。
 とてもいい本を読むことができた。ある意味において幸せだった。

 『人が死なない防災』

 今月も防災本を紹介したい。
 群馬大学の片田教授は災害社会工学が専門であるが、自然災害大国である日本においては、避難の専門家ということになっている。
 片田先生の書籍は2015年の12月に一冊紹介している。
 『子どもたちに「生き抜く力を」 釜石の事例に学ぶ津波防災教室』という本で、東日本大震災時に岩手県釜石市の小中学生が自主的に避難して助かったことについて書かれた本だった。その防災指導をしたのが片田先生である。
 今回紹介する本は、この“釜石の奇跡”のこと、東日本大震災の体験だけではなく、広く災害一般についての災害対応行動をわかりやすく解説した新書である。

『人が死なない防災』(片田敏孝 著)(集英社)(集英社新書)(2012年3月初版)
(2016年4月第5刷)

人が死なない防災 (集英社新書)

人が死なない防災 (集英社新書)

 本書をひとことで表せば、この小文の標題どおり。“理性的な災害対応行動をとろう”ということに尽きる。災害は忘れたころにやってきて、しかもそれぞれ、自分は生き残ることを前提に考える。しかもその生存の確信は何かに裏打ちされたものではなく、限りなく楽観的期待、希望的観測に基づいている。
 日本に住んでいる以上、どこでもどんな場所でも、被災者になりうる可能性がある。洪水・津波・土石流・噴火・豪雪・高潮・火災……。
 まずは、その自分だけは助かるに決まっている、という楽観論を捨てなければいけない。そして自らを律して(怠けずに)、災害対応行動をとることが生存への大前提となる。すぐには全国民がそうなる、とはいかない。“もういつ死んでもいいから逃げないよ”とか“絶対にここは安全だからこのままここにいるよ”ということを云う人は必ずいる。だから片田先生は子どもから防災教育を徹底していこう、という考え方なのだ。
 本書の読者層も、高校生くらいを対象にしていると云ってもいい。実際に第3章は震災の前年に釜石高校での講演会を書き下ろしたもの。釜石高校での講演会の9ヶ月後に地震が起こり、津波がやってきた。

 片田先生は云う。この東日本大震災は、想定が甘かったのではなく、想定にとらわれすぎたのだ、と。防災が進むこと(高い防潮堤や堤防の構築など)は、自然との距離感が広がることであり、人間の脆弱性が増すことに他ならない。具体的な例として、海がまったく見えないほど巨大な防潮堤を築いたことが、人を災害から遠ざけてしまうひとつの要因になってしまった。ということだ。
 「想定にとらわれすぎた」ということは、どういうことだろう?
 それは行政が作成したハザードマップがいい例である。ハザードマップの危険地域の外側に家がある人は、逃げようと思わない。そしてこの東日本大震災では、大津波が軽々とハザードマップの危険区域を乗り越え、安全区域にまで浸入してきたので、安全だとされた地域の多くの住民が津波に呑まれた。つまり「津波はここまで来ない」という想定を信じて動かなかったわけだ。
 防災に関して云えば、私たちはいつの間にか行政が決めたこと、行政がやっていることに盲目的に従うだけになってしまっている。100年前はそうではなかった。防波堤も堤防も砂防ダムもなかったから、自分たちで自分たちを守っていた。……そういう生存本能を麻痺させるように自然を遠ざけるしくみを私たちは行政を通じて拵えてしまった。その結果、主体性が奪われた。自分の命を守ることに主体的でなくなったのだ。誰かが助けてくれる、のではない。
自分の命は自分が主体的に守らなくてはいけないのだ。自分の命を主体的に守ろうというその姿勢こそ、最も大切なことだと説いている。

 片田先生のこのことばは強烈だった。
 「災害対策基本法のもと、50年に渡って「行政が行う防災」が進められてきた結果、このような日本の防災文化が定着してしまっている。防災に関して過剰な行政依存、情報依存の状態にある。自分の命の安全を全部行政に委ねる。いわば、住民は「防災過保護」という状態にあるのです。これがわが国の防災における最大の問題なのです。」

 「津波てんでんこ」ということばがある。津波のときはてんでんばらばらに逃げなさい、ってことだが、実際にそんなことできない。お母さんは子どものことが心配でたまらないし、子どもは老いた親が気になって仕方ない。でもめいめいが「自分の命の責任をもつ」のであれば、そしてそれを家族が信じあうことができるのであれば、この「津波てんでんこ」は生きていることばになる。